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もし日本軍が本当に59式戦車を使っていたらどうなったかchatgptに考察させた
2026-01-27 20:16:29
──────────────────────── 九七式中戦車という“謎の主力”について ――戦車史のバグっぽい存在を、手元の資料からつらつら書いてみる ──────────────────────── 最近ちょっと戦車ネタから離れてたんですが、久しぶりに九七式中戦車の話でも書いておこうかなと。 といっても、いわゆる「教科書に出てくる九七式」みたいな薄装甲・短砲身のイメージじゃなくて、あの重装甲・長砲身のほう。戦後資料だと“九七式中戦車(甲)”とか“九七式改T”とか“重装甲型”とか呼ばれているやつです。 だいたい「後のソ連T-54初期型クラスが、なんで昭和12年にいるんだよ…」とツッコまれる、あれ。 軍オタ界隈だと、戦前戦中の日本戦車の話になると、毎回この九七式(改T)が話題をぶち壊していくので、いっそ一回ちゃんと整理しておこうと思います。 ※例によって公開資料と回想録がぐちゃぐちゃに混ざった個人メモなので、「そういう説もある」くらいで読んでください。 ──────────────────────── ■ 九七式(改T)って、結局どんな戦車だったのか ──────────────────────── まずスペックから片付けようとすると、この戦車は途端に面倒くさくなります。 というのも、戦中はほぼ全面的に秘匿対象で、戦後も長いあいだ詳細が黒塗りだったからです。 現場の兵隊や整備兵の話は割と残っているのに、「装甲何ミリ」「砲の初速がいくつ」といった具体の数字は、戦後になって英軍や米軍、あと中国側の試験記録が出てくるまで、ほとんど公になりませんでした。 とはいえ、今手に入る範囲の資料を寄せ集めると、おおよそ次みたいな感じです。 ・重量は36トン前後(時期や仕様で±1トンくらい揺れる) ・エンジンは500馬力級のディーゼル(形式名は資料で割れるが、出力と排気量はだいたい一致) ・サスはトーションバー ・車体前面は100mm級をかなり大胆に傾斜(だいたい60度くらいとされる) ・側面は80mm級の帯、後面も60〜80mm、砲塔正面は200mm級 ・主砲は100mm高初速砲(戦後ソ連のD-10に近い性能と言われる) ・弾種はAPHE/APCBCとHEが基本。HEATやAPDSは最後まで持たなかった こうやって数字を並べると、「いやいや、どう見ても戦後MBTじゃん」という感じですが、重要なのは当時の感覚です。昭和12年〜15年くらいの世界で、こんなものを見せられた相手にとっては、「重戦車」とか「巡航戦車」とかいう枠組みがいったん吹き飛ぶ代物だったわけで。 実際、英軍の資料でも米軍の資料でも、最初期の九七(改T)をどう分類するかでだいぶ迷っている節があります。 報告書によって「重戦車に分類すべし」と書いてあったり、「中戦車として扱うが、重戦車並の防御」と書いてあったり。 戦車史的な言い方をすると、 「カテゴリーの側がまだ整理されていない頃に、やたら完成度の高い“まとまり”が先に出てきちゃった車両」 という感じですかね。 ただし、これだけのものを当時の日本の工業力で作って、しかも前線に送るというのは、当然タダでは済まなかったわけで、その話は後でじっくり出てきます。 ──────────────────────── ■ 現場が覚えていたのは、スペックよりも「効かなさ」 ──────────────────────── 九七(改T)について面白いのは、戦中の一次資料や兵隊の回想を読むと、ほとんどの場合「数字」が出てこないことです。 何ミリだとか、何馬力だとかいうよりも、 「当たっても止まらない」 「横から撃ってもなかなか抜けない」 「撃たれてるのに平然と寄ってくる」 そういう“体感”の言葉ばかりが目につく。 たとえば北支方面の某歩兵連隊の戦闘詳報では、 「敵の対戦車砲が数十発命中せるも、戦車前進を止めず」 という一文だけがぽんと置いてあって、肝心の“何ミリ砲で何メートルから撃ったのか”みたいなところは一切書いていない。 あとで同じ作戦の米側・中側の記録を見ると、「37mm砲弾がパンパン跳ねていた」「実包を使い切るまで撃ち続けたが、火花が散るだけだった」というような描写が出てくるので、おそらく当時の主力37mm級ATでは、前からも横からもほぼお手上げだったんだろうな、というのが推測できます。 対して、乗っていた側の証言でよく出てくるのは、 「前向けてる間は、砲弾の音だけがうるさい」 「とにかく横を晒すなと何度も言われた」 「停止したとたんに集中砲火を浴びるから、エンジンだけは生かせと整備の人間がしつこかった」 みたいな話です。 つまり、乗っている側も「自分たちがどれだけ硬いのか」は漠然としか知らない。 概略として「正面はまず抜かれない」「横は危ない」「履帯や足回りは撃たれると止まる」というレベルで共有されていて、それ以上の数字は必要としていなかった、という雰囲気があります。 戦後に米軍の試験で「前面100mmを60度傾斜」「側面80mm垂直」なんて数字が出てくると、そりゃそうだろうな、という感じなんですが、当時の現場にとっては、 「前を向けていれば、だいたいの砲弾は弾く」 という認識で十分だったわけで。 九七(改T)の“伝説っぽさ”は、この「スペック知らないけど効かない」という距離感から来ているところも大きいと思います。 ──────────────────────── ■ どこにいたのか:大陸偏重の配備と、南方の「顔見せ」 ──────────────────────── 配備の話も、九七(改T)がややこしいところです。 教科書的な「帝国陸軍の戦車配備」を見ると、どうしても九七式=中戦車=あちこちの戦線にそこそこ広くいた、みたいなイメージで語られがちなんですが、重装甲型の九七は話が違います。 少なくとも現時点で公開されている編制表や作戦記録、あと終戦時の残存台数の調査を見る限り、九七(改T)は最初から最後まで、「大陸偏重」です。 北支〜華北〜満州。 このラインに、常に“塊”で存在している。 もちろん南方にも全く行っていないわけではなくて、マレーやビルマ方面に「これ絶対九七(改T)だろ」という写真や戦闘記録が残っています。 ただ、そちらはどう見ても数が少ない。 部隊単位でゴソっと送られたというより、「象徴的に数両〜十数両」が特定の師団や混成旅団に振り分けられたと考えたほうが、帳尻が合う感じです。 これ、当時のインフラ事情を考えるとすごく妥当で、36トン級の戦車を安定して動かそうと思うと、 ・道路の耐荷重 ・橋梁の補強 ・鉄道輸送(車両限界) ・整備工場の設備 ・燃料の集積 このあたりが全部、ある程度以上整っていないとどうにもならない。 その点でいうと、やっぱり満州/華北のほうが条件が良いわけです。 結果として、九七(改T)は「本格的な戦車戦が起きそうな北」のほうを主戦場にされて、南のほうは軽中戦車と歩兵支援用の車両でなんとかする、という割り切りになっていったように見えます。 南方に送られた少数の九七(改T)が、現地の連合軍に与えたインパクトは相当なものだったようで、英軍のマレー戦の資料なんかを読むと、 「対戦車砲の射手がしびれを切らして射撃を停止した」 「命中を確認してもなお前進してきた」 みたいな、砲兵側の心理的ダメージがわりとストレートに書いてあったりするんですが、 それでも全体の戦況を左右するほどの“頭数”にはならなかった、というのが正直なところかなと思います。 ──────────────────────── ■ 戦中の伝説:味方が付けたあだ名、敵が付けたあだ名 ──────────────────────── 九七(改T)に関する“伝説”は、味方側と敵側でちょっと毛色が違っていて、それを見るだけでも雰囲気が伝わってきます。 味方側で多いのは、「鉄城」「石亀」「金剛」みたいな、いかにもなあだ名。 部隊によっては「城」とか「箱」とか、もっと雑な呼び方をしていたようですが、とにかく“固いものの代名詞”として呼ばれることが多かったようです。 それに対して、敵側(特に中国側や英軍側)の呼び名は、「黒い棺桶」「山」みたいな、ちょっと不吉な方向に寄っています。 中国側の回想録でよく出てくるのが、「黒い箱が土煙を上げて突っ込んできて、砲弾が弾かれ続けた」という表現で、おそらく砂埃で汚れた九七(改T)のシルエットが、そんなふうに見えたんだろうなと。 面白いのは、どちらの呼び名にも共通して、「遅い」とか「よく壊れる」というニュアンスがあまり出てこないことです。 実際には36トン級の戦車なので、軽戦車と比べれば当然速くはないし、足回りの故障もそれなりにあったはずなんですが、少なくとも“名前になるほど”の弱点ではなかったらしい。 それよりも、「とにかく硬い」「弾が効かない」という印象のほうが強烈だった、ということなんでしょう。 ただし、味方側の戦車兵の証言を読むと、ちゃんと弱点も分かっていて、 「側面に対しては、六ポンド砲でも距離次第で抜かれる」 「履帯をやられた状態で取り残されるのが一番怖い」 「砲塔上面に爆弾を落とされると、中身ごと持っていかれる」 みたいな話もよく出てきます。 この辺の“冷静さ”と、“外から見たときの怪物感”のギャップが、九七(改T)の伝説っぽさを支えている気がしますね。 現場の兵士にとっては、「万能の無敵戦車」というより、「使いどころさえ間違えなければ頼りになる鉄の塊」であって、 それをたまたま正面から受ける羽目になった敵にとっては、「まともに相手しちゃいけない怪物」に見えた、という構図です。 ──────────────────────── ■ 終戦と接収:満州の九七(改T)が、そのまま“よそ様の戦車”になる ──────────────────────── 終戦時点での九七(改T)の残存数については、資料によってバラバラですが、よく引かれるのは「稼働可能な状態で百数十両、非稼働や予備車体を含めて二百数十両」といった数字です。 その多くが満州と華北に集中していたことはかなり確実で、ここが戦後の運命を決めてしまいます。 要は、そのまま一括で接収されるわけですね。 ソ連軍は技術情報と一部の車両を持ち帰り、中国側には「そのまま使っていいよ」という形である程度の数を残していく。 残された側にとっては、「タダで手に入る、おそろしく硬くて強い戦車」です。使わない理由がない。 もちろん、ここで問題になるのが弾薬と部品です。 100mm砲弾なんて、自前で作れるはずがない。 だけど、戦後しばらくは日本から残置された弾薬や、ソ連経由での供給でなんとか回していたようで、内戦の初期の頃までは「九七式中戦車のままの姿」で戦っていた様子が、写真や記録から読み取れます。 このあたりから先、中国側の資料は政治的な書き換えが入ってくるので、どこまでを額面通りに受け取るべきか悩ましいのですが、少なくとも次の二点はかなり信憑性が高いと思っています。 ひとつは、「九七(改T)が都市戦で重宝された」という話。 厚い装甲と大口径砲を持った“移動トーチカ”として、城門や要塞化された建物を文字通り叩き割る役をやらされていた、という証言が複数出てきます。 これは当時の中国側の対戦車能力を考えると自然で、敵に回したくない車両だったろうな、と。 もうひとつは、「九七(改T)が戦後の装甲部隊の教科書になった」という話。 これは数量の問題もあって、最初期の装甲部隊の訓練に使える“まともな”戦車が、事実上九七(改T)しかなかった地域がある。 そこで、操縦、射撃、整備のイロハが、九七(改T)を通じて叩き込まれていった。 もちろん途中からソ連製のT-34やその後継が入ってきて主役交代するわけですが、「最初に触った本格戦車」は九七だった、という世代が確実にいるわけです。 この「教科書だった」という側面が、後のコピー疑惑や設計思想の似通いにつながっていくわけで、ここが九七(改T)の“戦後も続く影”の根っこになっている気がします。 ──────────────────────── ■ コピー問題:59式のシルエットに、どこまで九七の面影を見るか ──────────────────────── 戦後の中国戦車と九七(改T)の関係については、かなり熱い論争が続いているテーマで、ここで全部やるとそれだけで一本記事になってしまうんですが、九七の記事として外せないポイントだけざっくり触れておきます。 まず前提として、公式の話では、中国の59式戦車はソ連のT-54Aをベースにした国産化車両、ということになっています。 これはこれはこれで事実で、砲塔形状や車体レイアウト、装備品の配置などを見ても、「T-54系統がベース」と言っていいと思います。 問題は、その“肉付け”の部分です。 そこに九七(改T)由来のノウハウが、どこまで混ざっているのか。 たとえば、初期の59式の写真と、戦後撮られた中国軍所属の九七(改T)の写真を並べて見ると、パッと見のシルエットは当然違うんですが、細かいところで「あれ?」という共通点がいくつか見つかります。 ・ハッチ周りの構造に似た癖がある ・車体側面の補強の入れ方が妙に近い ・車内の弾薬ラックの作りが、九七の改修型とそっくりな部隊がある もちろん、これだけで「九七コピーだ!」と言い切るのは乱暴なんですが、現場の工員や整備兵が、実際に触っていた車両から学んだ可能性はかなりあると思っています。 要するに、「図面はソ連から来たけど、実物として手元にあったのは九七(改T)だった」という状況ですね。 そうなると、「図面通りに作る部分」と「実物を真似て作る部分」が混ざるのはごく自然な話で、結果として“ハイブリッドな初期ロット”ができる。 このへんの話は、退役した中国側の技術者のインタビューなんかにも、それとなく匂わせる部分があったりします。 で、こういう裏事情があるからこそ、現代の中国戦車の系譜を語るときに、「実はルーツの一部は九七(改T)なんじゃないの?」というネタが、オタクの間で延々イジられるわけでして。 抗日ドラマで59式が日本軍戦車役をやっている画面を見るときに、「いや、お前の祖父、九七だろ…」とつぶやきたくなる感じ、分かってもらえるでしょうか(笑)。 ──────────────────────── ■ 日本国内での戦後の扱い:ひっそり残って、ひっそり消えていく ──────────────────────── じゃあ、戦後の日本国内では九七(改T)はどう扱われたのか、という話。 ここがまた微妙で、はっきり言って「国民的なイメージとしての九七(改T)」はほぼ存在しません。 同じ戦中アイコンでも、零戦とか大和とかは、知らない人でも名前くらいは分かるレベルなのに、九七(改T)は軍事オタクかせいぜい歴史好きの一部しか知らない。 終戦直後、国内に残っていた九七(改T)は、かなりの数が解体されてしまったようです。 砲塔と主砲は真っ先に撤去され、車体も装甲板を切り出して別用途に回されたり、足回りだけ残して工事用の牽引車に転用されたり。 記録によっては、「砲塔を下ろして車体だけで土木工事に使った」という証言もありますが、写真はあまり残っていません。 一方で、いくつかの車両は“試験用”として残されました。 具体的な数字は公開されていませんが、防衛庁技術研究本部や一部の重工メーカーの資料を読むと、「旧陸軍中戦車車体を基礎とする走行試験」の記録がちらほら出てきます。 写っている写真のシルエットを見る限り、「これ九七(改T)だよね?」というものが混ざっていて、おそらくあれが戦後の“裏の仕事”をしていた車両なのでしょう。 この“裏の仕事”というのが、国産戦車開発のスタートラインを整える役割です。 国産第一世代と言われる61式戦車の開発は昭和30年代に入ってからですが、その前段階で、 「戦車の重量クラスをどうするか」 「日本の橋や道路で運用可能な限界はどこか」 「整備性をどう見るか」 といった検討をやるときに、「実物として36トン級の車体があるかないか」は結構大きい。 九七(改T)の走り方、壊れ方、整備の手間を実際に見ておけば、「これより少し軽くしよう」「ここは簡素化しよう」といった判断の参考になります。 逆に言うと、九七(改T)があったせいで、61式の設計者たちが“現実的な落としどころ”を体で知ることになった、とも言えます。 ただ、このあたりはあくまで技術屋と一部の隊員だけの話で、世間一般には全然見えてこない。 展示にも出てこないし、ドラマにも映画にも出てこない。 そのうちに、試験に使われた車両も老朽化と施設整備の波でスクラップになっていきます。 ごく少数だけ、学校の片隅や駐屯地の片隅に“置き物”として生き延びた個体があるようですが、それも本当に一握り。 気付いたら、九七(改T)は日本国内からほとんど姿を消していました。 ──────────────────────── ■ なぜ零戦みたいな“工業力の象徴”にならなかったのか ──────────────────────── ここまでざっと見てきて、一番モヤモヤするのがここだと思います。 「1937年にT-54クラスの戦車を作ってたなら、もっと誇ってよくない?」 数字だけ見れば、たしかにそうなんですよね。 36トン級で100mm傾斜装甲、100mm高初速砲、500馬力級ディーゼル。 世界的に見ても、当時としては頭ひとつ抜けていたのは間違いない。 なのに、九七(改T)は零戦や大和のような「工業力の象徴」にはなっていない。 なれなかった理由を、個人的に整理すると、大きく四つくらいあります。 ひとつ目は、単純に「数が少ない」。 零戦は三千機以上作られて、戦場のあちこちにいた。 九七(改T)は、多く見積もっても数百。 それも大陸偏重で、南方や本土では一般の人の目にほとんど触れていない。 象徴になるには、やっぱり「見た」人の数が足りなかったんだろうな、と思います。 ふたつ目は、「戦争の語られ方の中心が海と空だった」こと。 戦後の日本で戦争の話をするとき、どうしても飛行機と船の話が先に来がちです。 真珠湾、ミッドウェー、レイテ、特攻、空襲。 陸戦の話は出てきても、戦車個別の話まで掘られることはあまりない。 九七(改T)は、その“掘られなかった側”にいる。 みっつ目は、「戦後の政治的な扱いにくさ」。 戦車は、どうしても「攻めの兵器」というイメージが強く、平和国家を掲げる戦後日本にとって、あまり前面に出したくない象徴だったと思います。 零戦や大和も賛否はありますが、「悲劇」とか「犠牲」とかの文脈で語られやすい。 それに対して九七(改T)は、“強すぎたがゆえに勝てなかった”という、ややこしい問いを投げかけてくる存在です。 このややこしさが、たぶん広い意味での「語られにくさ」につながっている。 よっつ目は、「現物の多くが海外に行ってしまった」こと。 象徴というのは、どうしても“自分の国にあるもの”に引き寄せて語られます。 博物館に行けば会える、図鑑を開けば載っている、そういう近さが必要です。 九七(改T)の現物は、その多くが中国やロシア側に渡り、あちらの博物館や屋外展示として余生を送っている。 日本国内に残ったごく少数の個体も、長いあいだ一般公開されずに眠っていた。 これでは、国民的な記憶に残りようがありません。 こうして見ていくと、「九七(改T)は、象徴になる条件とは真逆のところにいた戦車だった」という感じがしてきます。 技術的には象徴級なのに、歴史的な立ち位置がそれを許さなかった、というか。 ──────────────────────── ■ まとめというか、個人的な九七(改T)との距離感の話 ──────────────────────── 最後に、少しだけ個人的な話を。 初めて九七(改T)の“それっぽい”写真を見たのは、高校の図書室にあった古い戦史本でした。 キャプションは「中国大陸で撮影された九七式中戦車」としか書いていなくて、砲塔の形も車体の感じも、教科書で見た九七とは明らかに違う。 当時は、「外国戦車の写真を間違えて載せたのかな」くらいに思ってスルーしていたんですが、後になって資料を漁るうちに、「あれが重装甲型だったのか」と分かって、妙に背筋が寒くなったのを覚えています。 自分が生まれる何十年も前に、あんなものが同じ国で走っていた。 しかも、その多くは日本の外で役目を終え、別の国の記憶や技術の中に溶けていった。 零戦や大和みたいな“分かりやすい象徴”は、それはそれで大事なんですが、九七(改T)みたいに「強かったのに、うまく語られなかったもの」のほうが、見ていて考えさせられる部分が多い気がします。 戦車として見れば、九七(改T)はたしかにおかしな存在です。 時代を間違えて生まれてきたような、妙に完成度の高いバランス。 でも、そのおかしさが、そのまま戦争そのものや、当時の工業力、政治や戦略の“ねじれ”を映してしまっている。 九七(改T)を追いかけていると、 「いい兵器があれば勝てる」 みたいな単純な話では全然ない、ということを、嫌というほど突きつけられます。 だからこそ、博物館の片隅で錆びかけた九七(改T)の車体を見るとき、自分はどうしても「すごい」と同時に「もったいない」と「仕方ない」の三つを、いっぺんに感じてしまうわけで。 その矛盾ごと含めて、九七式中戦車というやつは、やっぱり戦車史の中でも特別な存在なんだろうな、と、そんなことを思ったりします。 (長くなりましたが、今回はこのへんで。資料の引用位置など、あとで気付いたらこっそり直すかもしれません)